今回は戦後日本の教育がAI時代においてどのような弊害があるかを独断と偏見で論じたいと思う。
日本は戦後GHQにより教育勅語が禁止されたため、「個性を殺し平均的な人間の育成」という教育方針に変わった。
理由は、技術力があり勤勉で愛国心に溢れ、積極的に海外進出をするバイタリティ溢れる日本人気質を恐れたのだ。
世界初の空母機動艦隊を運用し、世界初の潜水空母(伊400型)を実戦配備して米本土を爆撃し、当時最高性能の酸素魚雷で音も航跡もなく米海軍の空母を撃沈した外国は歴史上、後にも先にも日本だけである。再び日本がライバルとなることをアメリカは恐れたのだ。
この教育方針に加え、敗戦国の罪意識を植付け、愛国心に蓋をするという教育を日教組がプラスして、戦後日本人はナショナリズムを完全に失うこととなった。
日教組の教育は管理人が所属していた陸上自衛隊を社民党党首に「殺人集団」呼ばわりされ、時の官房長官には「暴力装置でもある自衛隊は特段の政治的な中立性が確保されなければならない」と言われるまでに浸透している。
「殺人集団」に「暴力装置」ですからね。管理人はお給料もらって素手で人を絞め殺す練習をしてたので若干やむを得ないが、攻撃的な兵器を持たず専守防衛しかできない自衛隊を「殺人集団」呼ばわりは看過できませんね。
話は戻り、GHQの「個性を殺し平均的な人間の育成」とはどのようなものなのか見てみよう。
これは社会で何の疑問も持たず大衆心理に従う集団の育成を目指すものだ。これは国家や社会、会社、使用者によってはとても都合のいいものだ。
なぜか?
替えが効くから。
平均的な人間と言うのはいくらでも替えが効くのだ。
また何の疑問も持たないので、国や社会、会社や使用者に刃向う事もない。ちょっとでも刃向った人間はクビにしてもいくらでも替えが効く。
要は人のモノ化を促進するためだ。
人のモノ化とは、抽象的な概念ではない。文字通りの意味である。人間が人間扱いされない。生きた人間そのものが「商品」や「物体」として認識され、効率的に使い捨てされるようになっていく。自分はそうではないと思っている人もいるだろう。
一体誰がそうなるのか。戦後教育によって何の疑問ももたず考えない人間だ。
古今東西、人のモノ化とは今に始まったことではなく、大昔からある。
人が人を支配してモノ化するというシチュエーションは、国が人を支配するに始まり、使用者が奴隷を支配するといったことだ。
大昔のことと思いきや現代でも形を変え、公然と行われている。会社が労働者を都合良く働かせ、要らなくなったらゴミのように捨てる。
なぜこのようになっているのか…
それは戦後教育のせいでなにも疑問を持たず、考えない人間が育ったからだ。
かつて第一次世界大戦で負けたドイツ国民はナチス党を第一党として民主的な選挙で選出したアドルフ・ヒトラーに従った。
ドイツが独裁国家と呼ばれるようになったのはその後の第二次世界大戦の結果としてなっただけであり、アドルフ・ヒトラーはれきっとした民主的かつ合法的な選挙で選ばれた人物だ。
なぜヒトラーが当選したのか?
戦後の混乱で連合軍に多額の賠償を背負わせられ、国内産業がガタガタになった時期に何も考えられなくなった国民は、道筋、生き方、働き方を強力に指導してくれる指導者を求めたのだ。
要は、戦後の混乱で自分で何か考えたり、決断したり、行動したりしなくてもいい楽な方法だったのだ。
独裁国家は考える人間を排除し、考えない人間だけを作り出し、そしてその「無脳集団」を自分の思う通りに動かして独裁を完成させる。独裁者が誕生するのは、独裁して欲しいと思う人がいるから選挙で当選するのだ。
自分で考えないで生きるというのは、誰かの駒になるということである。人間社会は昔から、考える人間が考えない人間を支配することで成り立ってきたのだ。ヒトラーの例は第一次世界大戦後の混乱時の話だが これは前述した会社にも当てはまる。
先月、うちの親会社に新卒の新社会人がわんさか集まって研修に来た。彼らの中には何か目的を持って会社に入ったというよりも、まわりに合わせて自分もそうした人も多いはずだ。
なんの疑問も持たずにまわりと同じようにやっていると、必ずモノ化されることになる。会社が労働者をモノ化するというのは昔から行われていることであり、チャップリンの映画のように労働者をモノ化する手法は確立されているからだ。
そして、日教組の教育が浸透してきた2000年代初頭から日本では大量に非正規の若者を採用して、つぶれるまで働かせて使い捨てするブラック企業が大量発生するようになった。
人間性を奪い取って、機械の部品のように働かせるのは、紛れもなく、人間の「モノ化」という視点がそこにあるからだ。
何の疑問も持たず、何も考えずに他人に自分の人生を委ねるというのは、とても危険なことなのだ。
戦後教育のように何の疑問も持たずに学校で先公の言うことを鵜呑みにし、みんなが行っているからとわざわざ莫大な奨学金を背負って無意味なバカ大学に入り、みんなが会社に入るからと自分も会社に入るような生き方をしている人は多い。
みんなと同じように生きていたら何も考えなくてもいいので楽だ。国も会社も親もあなたがモノ化していれば扱いが楽なのでモノ化するように働きかける。
だから誰もがモノ化して「考えない道」を選ぶ。
ずっとそんな生き方をしていたら、いずれ「自分で何も考えられない、決断できない、行動できない」人間と化す。何も考えられないから誰かに命令されるだけの人生になる。そう、楽な道を選んだドイツ国民のように。
そのツケは第二次世界大戦できっちり払わされることになった。
そして、自分の人生が自分のものでなくなり、誰かにモノ化されて、良いように使われて捨てられる。
まずは自分が今、モノ化されていないかどうかを考えなければならない。そして、モノ化されていることに気付いたら疑問を持たなければならない。
「それでいいのだろうか?」
何も考えないで生きていると、必ず誰かにモノ化されることになる。逆に言えば、考える力を取り戻すとモノ化から脱却できる。
そして考えることができるようになれば、モノではなくなる。
AIの発達でこの考えるという作業が人間に取って代わられるとどうなるのか…
そう、考えない人間は誰でもできる単純労働しか仕事がなくなり、アメリカのようにワーキングプアが蔓延する社会となる。
欧米では得意分野のある子どもにはその得意分野を伸ばそうとする教育をする。戦後日本では得意分野のある子どもには得意分野を伸ばさず、逆にその子の苦手分野を見つけて、苦手を克服するような教育をする。こうして個性を殺し、特段の得意なものをなければ、逆にそこまで苦手なものもないような平均的な人間が育つ。
だから英語が出来るだけで特別な得意分野がない日本人はグローバル企業で通用しないのだ。全世界のIT企業に出稼ぎしている北朝鮮人民軍のハッカーのほうがはるかに優秀である。
子どもを持つ親は子どもの将来のために「疑問を持つこと、考えること、得意分野をとことん伸ばすこと」この3つを大事にして子どもを育てることが重要になる。
とは言っても世の流れに逆らうことはたいへんだ。個性を出すと潰され、出る杭を打たれるのが日本の社会だ。
だが何も考えないで生きていくとどうなるかは戦後のドイツをみれば一目瞭然だ。
そのうえで考えて生きるという事を意識し、AI時代で生き残っていく側にサバイバルする必要がある。
戦後70年を過ぎ、そろそろ日本人は目覚める時が来たのではないだろうか。